2015年10月27日火曜日

達観の果ての隠居じじい

2015.10.26(月)
最近「隠居じじいみたい」だと自分でも常々感じていた。
心地よいのだが、悩みもないのだが、
「これでいいのだろうか」という木の芽がぴょこっと顔を出していた。

どういうことかというと、
バンドを解散し、
今までの人生をまとめる旅(ヒッチハイク)に出て、
いろんな人の話を聞き、いろんな本をたくさん読んだ。
それによって、今までの自分の人生を全て肯定できるようになった。
いわば「これでいいのだ」である。
それによって、「生きているだけで幸せ」「万物に感謝」「人それぞれの価値観があって違いがそれを尊重し合って生きて行くべき」「今自分の目の前にあるものをまず愛する」などの言葉もスルスルと自分の中に入っていき、全て心から理解し紆余曲折ありながらも実践してきた。

しかしそれによって、一種の『達観』の境地に達してしまった。
(大げさな話ではなく、本当にそうなってしまった。)


ちなみにこういうことを話すと、
何かの宗教に入信したのではないかと疑われがちなので、
はじめに断っておくが、どの宗教にも属していない。
なぜなら「世の中は自分の考え方次第」なので、
仮に神がもしいるとしても
「自分の内側にしか存在しない」と思っているので、
何かを信仰することは今の自分には皆無。


具体的にどういうことかというと
「時間の流れが異常に早く感じる」や
「すぐに結論に行き着き、それを発言する」などがあげられる。

先ほどバイト先のみんなと話していて、
みんなもそれを感じていたらしい。
「最近松野はつまらなくなった。数ヶ月前の生き生きした松野じゃない。」
「目が座っています。」と言われた。

たしかに、私はタバコもギャンブルも酒もせず、
毎日が最高に満ち足りていると感じ、
実家に帰って幸せな家族を築きたいなどという考えも頭をかすめるこの頃だ。

座右の銘は「健康」で納豆とプロテインを毎朝摂取し、
20年後の腰痛を心配しストレッチを欠かさない。
「人生これから」なのに「これでいいのだ」を体現しすぎた。

いま風呂に入っていて気付いた。
2ヶ月前、私はどぎつい失恋をしてしまった。
フられた当初、自分はこんなに人生経験豊富で「君を絶対に幸せにできるのにその良さをなぜわからないんだ」と自問自答し、ひねり出した答えは「自分の魅力が足りなかった」や「その人には合っていなかった」や「魅力に気付いてもらえなかった」などに行き着いたが、今日てかさっき、原因はそこじゃないことに気付いた。
もちろんいまあげた答えも間違えではないかもしれないが本質は違った。

そうだよ、だって、恋愛って
「いろいろあってお互い高め合っていく行為」なのに、
片方が「達観」してたらおもしろくねぇじゃん。
ジグソーパズルしようとしてる人の目の前に、
既に出来上がってるパズルを「はいどうぞ」って出されても、
なんの魅力も感じない。
そりゃ「いりません」ってなるわ。
試行錯誤してワクワクして作っていくんだから。
「もう出来てるもの」に対して魅力ないわ。
大切なのは「作っていく過程」、
そう、最近ずっと言われてきている、
大切にしろといわれてきている、
「過程」に結びついた。

あぁなんということだ、
これも私が成長する「過程」であると信じる。
今日はここまで。

インスタグラムに、
「花が咲いている。うれしい」
などと投稿している自分を俯瞰して、
本当にじじいだと心の底から思った。


0 件のコメント:

コメントを投稿